ということで、第52回キリスト祭りに行ってきた時のことをメモ。
前回からさほど時間もたってないが、1年に1度のキリスト祭りがあるということで行って見みた。
キリストの墓についての前回の記事
入り口から豪華なエントランスでお出迎え、今回で52回というのもすごい歴史だなと思う。
資料館などには祭りの初期の頃の記録などあったら展示して欲しいものである。
キリストの墓まで続く急な上り坂には「キリスト祭り」の、のぼりが並んでいる。
あまり予備知識無く来てしまったが、どんな感じのお祭りなのだろうかと期待が高まる。
まずは入り口付近で今日のプログラムを渡される。
これってやっぱり物凄く日本的なお祭りなんでしょうねぇ……
※クリックして拡大
やっぱり神事だよね……そうだよね!
参列しているみなさんの中にはキリストの末裔とされている方もおられた。
獅子舞も披露される。
ナニャドラヤをスタンバイしてる模様。
ナニャドラヤを撮ろうと近くまでいくも、厳重な警備に一般人は途中で止められてしまう。
やや遠めからの撮影。じいさんばあさん達にもみくちゃにされながらも三脚を上げての苦しい撮影に。
今回はがんばって動画も撮影しました。
厳重な警備員のスタッフジャンパー。かっこいいですねー。
こんな風にクロスをデザインできるって、いろんな意味で吹っ切れていると思う。
最後にみんなで資料館前広場で、ナニャドラヤを踊って歌って終わる。まさに大団円である。
祭りの後、あっという間に地元の人たちは居なくなってしまった。。
帰りはもちろん「キリストッぷ」でお土産やオリジナルのボカロCDなど「キリストの墓」の関連グッズを購入することができるのでいってみる。
ロゴが何かにそっくりかと? いや、気のせいだろう。
小生はキリストの遺言タオルを購入して大満足。
帰りに美しい十和田湖を眺めながら、あれはなんだったのかと思いふけるのであった。
前にいった秋の恐山例大祭の事を思い出しながら。
例大祭は年に2回あるわけだが、この時はイタコの口寄せなども体験できるなど、
この霊山を堪能するにはこの時期と聞いていたのでいってみることにした。
道中は気分を盛り上げる為に、寺山修司ラジオドラマ「恐山」を何度もリピート。
「人は死ねば、お山(恐山)さ行ぐ。 行きたくなくても一度はいぐんだ。
人間は生まれ変わらねばならねぇ。生まれかわらねぇ人間はみんな赤ん坊だ。」
という感じで予習していった。
写真などで見たときはお祭りの時はのぼりが出ているようだが、この時はなかった。
多分お祭りの終わり間際にいったのが原因かも。
イタコの口寄せは、こんな感じで簡易テントの中にイタコがいる形式。
通常はかなり並ぶと聞いていたがこの時は一組だけ先に待っている程度だった。
自分で体験したみることに、呼んでもらおうと思ったのは父方のおばあさん。実はあったことはありません。
呼ぶにあたっていくつか条件が与えられ、親族であるか、かなり親しい人でないと駄目と先に言われる。
その他、名前はもちろん続柄、命日などが必要ということをこの時に知ったのだった……準備してなかったんだけど、結果的に呼んでくれました。
どんなふうに呼ぶんだろう……と見ていると、まず最初にじゃりじゃりとすごく大きい数珠でリズムをとり歌う。
ちょっとだけ冒頭はこんな感じ。
その歌のリズムのまま会話というか一方的に呼ばれた事に感謝される感じでいろいろ話を聞いておしまい。会話のキャッチボールはなかったかな。
何かでみたんだけど、呼ぶこと自体が本当かどうかは関係なくこれはカウンセリングの要素があるということ。
なんとなく自分も体験して分かりました。この会話はなんだかわからんけどちょっと救われるような感じなのかな、と思った。
お祭りの時は風車の数が以前来た時と違い、たくさんあった。
なぜか前回とり忘れた本堂を今回は撮っておく。
この日は雲って雨が降り出す直前の写真でちょっと幻想的な暗さがあって良かった。
おしまい
イスラエルに行く前から気にかけていた、青森県新郷村(旧戸来村)にある、キリストの墓にいってみることにした。
村の伝説
資料などを見てみると、約2000年前にゴルゴダの丘で磔刑になったはずのイエスは、密かに逃れてこの地に移り住み106歳の天寿をまっとうしたらしい。 元になったのは昭和6年に現在の北茨城市の皇祖皇太神宮の神宝、竹内古文書が解宝され、そこに神代文字で記載された神武以前の日本歴史がいろいろと書かれており、その中の一つにイエスが新郷村(旧:戸来村)に来たという事が書かれていたそうである。戸来(ヘライ)という呼び名もヘブライから来た?など言われたりすることもあるようで。
キリストの墓
2つ墓がありますが、一つはイエスの弟イスキリの墓でイエスの身代わりとしてイスラエルで磔刑になったのだそうです。
夏にはこのキリストの墓の周りで夏は盆踊りしちゃいます。
盆踊りはこのあたりの地方で良く唄われる「ナニャドラヤ」。
「ナニャドラヤー ナニャドナサレノ ナニャドラヤー」と、歌詞はこれだけ。
これをめっちゃループします。いったいどうやってエンディングに持っていくんだろう。。
不思議な歌詞ですが、歌ってる人たちも意味が分かってないらしい。
この歌詞は古代ユダヤの軍歌だという人もいれば日本語の恋歌であるという人もいるようです。
踊りの動画があったのでご紹介
キリストの墓伝承館
ここに様々な新郷村のキリストにまつわる伝説や資料が展示されています。入口付近では「ナニャドラヤ」の無限ループでお出迎え。展示物は、キリストの遺言のレプリカなども展示されてました。
沢口家
キリストの墓を守ってきた沢口家の墓がすぐ近くにあります。
よく見ると家紋がダビデの六芒星・・いや、五芒星だった。。だと意味がいろいろ違うような?
—- 以下展示資料から引用 —-
日本渡ったキリストは、松ヶ崎(八戸市の八太郎)から上陸し、戸来(現在の新郷村)に住所を定め、その名「十来太郎大天空」と改めて、ミユ子という二十歳の女性をめとり三人の娘をもったと言われています。
そして、その長女が嫁いだとされているのが沢口家です。(略)
また、山根菊子女史の「光は東方より」の中で「(山根女子らの研究の中の)絵に見るキリストの肖像と生き写しだ。頭の毛がズッと禿げあがって居り、鼻は高く眼は大きく、身体のガッチリした風貌はあまりにもよく似ている。(略)まるで骨像の中に現れたキリストの像が目の前に現れたかと疑う計りの酷似である。」と、女史は沢口三次郎氏(現在の当主・沢口豊治さんの父)との初対面の印象を書いています。
—-
ということは、沢口さんはイエスの子孫って事なんですか!
ミステリアスだけど、突っ込みたい。例えば、「絵に見るキリストの肖像と生き写しだ。」って、そんなー。
そもそも、まだ2000年前のイスラエルにいたユダヤ人は混血が進んでなく、もろ中東の方たちと同じような顔つきでしょうよ。宗教画に出てくるイエスはほとんど白人をモチーフにしたものだもの・・・。
額に十字(ヤッコを書く)
生まれて間もない子供を初めて外に出すときには、その子供の額に十字をかくという慣わしがあって、最近までこの風習は続いていたとの事。魔除けや、子どもが健康に育つ願掛けの意味だとか。
ミステリアスであるが、ここで疑問が出てくる。
もし、渡来した人がイエス本人だとして、十字を書く習慣を伝えたのは誰か?
十字のシンボルはキリスト教で使われるよりも前から多様にあるが・・。
キリスト教がローマ帝国時代に国教になったのはイエスの時代より後の4世紀頃、イエスが青森に来た時代は今のような習慣や宗教シンボルが確立してなかったのではないか。
キリスト教で十字が記録で出てきたりするのは、コンスタンティヌス帝の時代あたりからのようだし・・・
では、誰が子どもに十字を書いたのか・・・、
と考えながら飲むこの村のオリジナルブランドの飲むヨーグルトはかなりおいしいので、オススメ。
酪農が盛んなようです。
でも、なんだかんだいってBBCも来てます。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/from_our_own_correspondent/5326614.stm
沢口さんがBBCからのインタビューに答えてる内容がかなりシュール。
「はたしてイエスの子孫なのか」的な見出しのインタビューに対して、「実は、家はみんなクリスチャンじゃなく、仏教徒なんですよ」っていう・・。
大石神ピラミッド(おまけ)
新郷村には、ピラミッドもあったりします。ちょっと寄ってみた。村のキャッチコピー「ロマンと歴史の里」も納得。
なぜピラミッドなのか。もとは、酒井勝軍という人が言い出したようなんだけどこの方も竹内古文書の支持者です。
–Wikipediaより引用–
鳥谷幡山が1934年(昭和9年)10月、青森県戸来村(現新郷村)において、ピラミッド大石神を「発見」する。1935年(昭和10年)8月初、同ピラミッドを訪問した、竹内巨麿は塚を発見したとし後にキリストの墓とした。
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竹内古文書は調べるとドンドン胡散臭くなると思うけど、このキリストの墓はロマンいっぱいの観光地であることは変わりないと思う。